自己実現を語る

夜の11時を過ぎて明るかった窓の外の景色も真っ暗になりかけていた。僕は自分の部屋でくつろいでいた。風呂にも入り、もう寝るだけという時間だが、まだ眠気がそれほどでもない。最近は便利なものでそういったときに少し時間を潰そうと思えばパソコンを起動するだけでいい。インターネットという便利なツールで寝る前の一人の時間を堪能していた。

そんな時に、携帯電話が鳴り出した。家ではマナーモードを解除しているので、電話がかかってくると急に音が鳴ってびっくりする。こんな時間に電話があることは珍しいが、こんな時間でも電話をかけてくる奴は一人しかいない。彼との電話はいつも楽しい会話になるので夜遅くても嫌な気はしない。僕は携帯電話を手に取った。
「もしもし、俺、ヒビトだけど」
「ああ、うん」
「ちょっと哲学的だけど、自己実現たるものを考えてみたんだよ」
ヒビトは何かを考えるのが好きで、なにかと考えて考えがまとまると誰かに話したくなるという。思いついたことを話してもちゃんと聞いてくれる人はとても貴重だと言ってくれた。人が勝手に考えたことを僕みたいに面白おかしく聞いてくれる人は少ないのだろうか?
他の人が考えたことなら、僕でもあまり楽しめないかもしれない。ただ、彼の考えはとくに理路整然とまとまっていて聞き手として聴きやすい。本人曰く、あんまり人に話まくってたら慣れてきたということらしい。僕以外にも何人かに話しているようで、僕のところに回ってこない話もあるというのが少し残念な所ではある。にしても、今日は自己実現か。正直興味のわかないテーマだなとは思った。

「まあ、基礎知識から行くけど、自己実現というは心理学で言われるやつで、俺も詳しくはないんだけどマズローの欲求階層ってやつの一番上にあるやつだよ。下から順に、生理的欲求、安全の欲求、所属と愛の欲求、尊重の欲求、で一番上に自己実現の欲求ってあるわけだ。で、下の方の欲求が満たされない限り上の欲求は満たされないって感じだな。
全部説明すると長げーし無意味だから、今回大事なところだけ、所属と愛の欲求、尊重の欲求、自己実現の欲求のことだけ軽く説明するわ。所属と愛の欲求ってのは単純に誰かに受け入れられていて所属しているって感覚が満たされることだ。まあ、単純に言えば孤独感がないって感じかな。尊重の欲求ってのは人に認められているって感じだな。なんていやいいんだろ。まあいいや。でその上に自己実現だ。自分で自分を認められるって感じだ。ここが最高だとマズローはいってる。念のために言っておくけど、人の意見を単純に取り入れたんじゃないぜ。自分でも本当にそうか?ってすごく考えて、まあ確かにそうだって思ったからこの考え方を使うんだ。初めはもっと階層の分け方があるんじゃないかとか、順番の入れ替わりは起こりえるかとか考えたけど、まあ、そこはいいや。
長々といったけど、つまり人は、人に受け入れられたい、受け入れられたら認められたい。人に認められたら、自分でも自分を認めたいってことらしい。人に認められなくても、自分だけ自分を認めてるって人もいたりとかいろいろあるけど、今回はそんな大事じゃないからいいや」

いつもはあんまりしない前提条件の説明があったのに驚いた。
「正直あんまわからんかったしよく覚えていないんだけど。要するに、人は他人に受け入れられたい、認められたいって思っていて、自己満足もしたいって思ってるってことがわかってればいいのか?」
ちょっと情報量が多すぎてパンクしそうだったから僕は頭を整理するために聞いた。
「まあ、それで十分かな。それぞれ、所属と愛、尊重、自己実現って言葉とあわせて覚えててくれればもっといいね」
「なるほど」
ヒビトは続ける。
「で、今日何が言いたいかって話だけど、自己実現はどうやったらできるかって話なんだよ」
「ほう」
僕は相槌を打った。これが今回の本題らしい。

「思うに方法は2つだ。どんな分野のことでもいいけど他人と競って高みを目指すってこと。それか、自分を何かの形で表現するってことだ。わかりやすく言うとオリンピックでメダルを取るとかってのが高みを目指すほうのやり方。有名なアーティストになるのが2つ目の方法。この2つの方法はいわゆる何かを成し遂げるってやつだ。
それと本当はもう一つ、長く生きるって方法もあるんだけど、定年迎えた人が、自分に対して40年近くもよく頑張って働いてきたと過去を振り返って満足しているのがそれだ。長く生きるって方法で大事なのは、ただ生きていくだけでもいいんだけど自分と一緒に生きていく人が必要だ。簡単にいえば結婚しとくことが大事。振り返って自己満足してる時に、そうだねって言ってくれる人がいないと受け入れられたい、認められたいっていうところの所属と愛、尊重の欲求ってあたりが満たされないからね。まあ、たぶんこれが一番多い自己実現の方法だと思う。でもきょうの話はこっちじゃなくて、その前の2つの何かを成し遂げるってヤツのほう」

僕がヒビトの話に言葉を挟む。
「なるほどね。まあ、長く生きてればなんだかんだと悟ったようなことを話す人多いしね。そのへんのこと言ってるんでしょ?」

「うーん、ちょっと違うな。長く生きててなにか悟ったような人じゃなくて、まあ、考えてみればいい人生だったなみたいなこと言ってる人だな。悟ったみたいなこと言ってる人っていろんなタイプの人いるからな。間違ってもないんだけど、人生の大失敗談みたいなこという人も悟ったような口調で言うから、そういうのとは違うって感じ」
「あー、まあ確かにね」
だいたいあってるならいいじゃねーか、こまけーなとちょっと思いながら続きを聞く。

「でだ、つまりは何かを成し遂げたいって思うのはただただ長く生きて人生を振り返るって方法じゃなくて自己実現をしたいって思ってるってことだと思うんだよね。しかも、年齢層が上がっていくに連れて何かを成し遂げるのはどんどん難しくなっていくようにみんな思ってるし、それは確かだ。でも難しくなっているのは誰かと競って高みを目指すのが難しくなっているだけなんだよ。
後者はそうじゃない。自分を何かの形で表現するってことは何歳でも誰でもいつでもできる。ちなみにどこまで高みにいければ自己実現されたことになるとか、自分を表現したものがどれほどの人に知られれば自己実現したことになるとかそういうのは個人差があると思うから何も言わないよ。
そうそう、ちなみに足が遅くても毎日毎日何キロも走ってそれを30年とか続けた人とか、特に高みに到達していなくともすごいと思ってもらえたりすごく満足できたりしてるって人いるけど、これは走るのが好きってことを30年かけて表現したっていう感じで捉えて自己表現ってほうに入れたいと思うんだよね。まあ、それは置いておいて、生きていくならせっかくなら自己満足したいじゃないか。てことでさ、俺何が好き勝手考えて、自分で自分を表現できるものを探していくことが大事だと思うんだ。
もちろん、高みを目指してもいいんだけどさ。高みを目指して頑張った人は、そのことをいかして何らかの形で自己表現もできるかもしれないけどね。そう考えると自分を表現することこそが唯一の自己実現なのかもしれない。結局は自分の努力をどんな形で表現するかってことだ。ちなみに俺が思うに、いや、実際やってみないとわからないけど、自分が作ったりやったりしたことを20人ぐらいの人がすごいって思ってくれたり、いっそサインが欲しいとぐらい思ってくれる人が数人いたりとかそういうので十分自己実現って感じがすると思う。あーでも、スポーツ選手とかってそれぐらいの事になってるけどやっぱり負けてるうちはあんまり自己実現って感じじゃないからやっぱり誰かと競ってるってのはちゃんと勝たないと自己実現って感じじゃないかもね」

途中でまた僕が言葉を挟んだ。
「つまりはなにか?自分を表現するようなことをすることで、それが数人にでも認めてもらえたらお手軽に自己実現ってのができるってことか?」
「うーん、間違ってないんだけど補足がいるかな」
またかよって少し思った。
「自分をどんな形で表現するかってことを自分で決めるってことがこれ以上なく難しい。何かやってみようって思っても続かないってことが多いだろう。それはその人の表現方法としては合ってなかったってことだよ。これを何か見つけるってのが大事なんだ」
「結局何が言いたいんだ?自己実現ってのは難しいってことがいいたいの?」
少し疲れてきたのもあるし、そろそろ終わりかなと思って結論を急がせた。
「まあ、それもあるけど、自己実現ってこと意識しながら自分のやりたいこと探すってだけでも、漠然と探すよりずっと見つけやすいと思う。やりたいこと探すときって目標を見失う人が結構いるから。そういうこと意識しておく大切さを色々考えて思ったってことが言いたかったんだよ」
やっと長かった話にも結論が見えてきた。
「なるほど、自分がどんな形で満足することが出来るかってことを意識しながらやりたいことを探せってことだな」
自分なりに話の内容をまとめてみたはずだったのだけど、予想通りというかヒビトはまたも否定した。
「うーん、それもちょっと違うんだけど、それは微妙すぎて説明しにくいな。まあ、なんとなくその表現だと違和感あるよ」
「まじかよ。今日そんなんばっか言われてる気がするよ。まあ、でもなんとなくわかった気がする。結構楽しかったし今後生きていく糧にしてみるよ」
少し違和感の残る理解ではあるのだろうけど、それは電話を終えてからゆっくりと考えてみればいいだろう。今日はもう寝よう。日付も変わろうとしている。
「話聞かせてくれてありがと。またなんかあったら電話してくれ」
「こっちこそ聞いてくれてありがと」
「じゃ、おやすみ」
ああ、終わった。毎回思うけどヒビトはいろんなことをずっと考えながら生きてるんだなと感心する。

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