けっして天気がいいとは言えない。玄関スペースの脇にある小窓から見える空の色は、私の心に安らぎも心地よさも与えてはくれない。そんな空を一瞥し、私は革靴を靴箱から取り出して床に置いた。
朝食をとり、歯を磨き、ばたばたと着替えて背広に袖を通す頃になると心に余裕がなくなっているのを感じる。これから仕事だと思うと、ゆったりとした気持ちではいられなくなる。別に仕事が嫌いというわけでもないが、心晴れやかに出勤というわけにはいかない。そんなとき、玄関の小窓からみえる空の色が清々しいものであればわずかに心救われるのだが、今日は恵まれていない。私は玄関にしゃがみ込んだ。
私はまず左の靴を手に取り、靴紐を解き始めた。
私は紐タイプの革靴を好む。出発する時に律儀に靴紐を緩めて、足を入れてからきちんと締め直すのは私の決まりだ。スニーカーなど、軽い運動を目的とする靴であれば靴紐を気にしている人を見かける事が多いが、革靴で私ほど丁寧に靴紐を結び直している人は少ないだろうと思う。私の同僚にもいないわけではないがその数は多くない。
急いでいる時も急いでいない時も、そういったわずかな時間を作ることで、今日一日について考え、落ち着いて今日を始められる気がするからだ。天気が悪いということで晴れなかった私の思考も、こうした時間を経ることでポジティブな考え方ができるようになることもある。
靴紐ぐらいと思わずにきちんと結び直すことが心に余裕をくれるのだ。
基本的に「こんなことどっちでもいいじゃないか」と思う様な事に時間を使うということが、まだ自分の心に余裕があるのだと確かめる事につながり、少し時化始めていた心に凪が訪れたかのような静けさを与えてくれる。
ほとんど意味の無いと思うことをわざわざやっているのだと、そう思うことで感じる安らぎをどれほどの人が共感してくれるだろう。
願わくば、のんびりと珈琲でもドリップして、一杯ぐらい飲んでから出勤するようにしたいものだ。
実際にそういうことをしていた時期もあった。しかし、本来心を落ち着けるためにあるはずの、珈琲がゆっくりとカップにドリップされていく時間があまりにながいことにイライラしている事に気がついた。たしかに、ゆったりと時間を使っていると思う事は心に安らぎを与えてくれるが、度が過ぎると逆にその時間を楽しめなくなってしまい、焦燥感だけが残るらしい。
出勤前の朝の時間で自分の安らぎのために割ける時間は多くない。珈琲をドリップして楽しむのは適切ではなかったのだろう。
左足の靴紐を上から数個分の穴から抜き取っていき、靴箱の中から靴べらを取り出した。それを踵に添えて左足を革靴の中に入れた。
時間に余裕がある日は、靴紐を抜き取ることまではしない。普段は靴紐を軽く引っ張って若干の余裕を作るだけだ。たとえ上から数個分だけだとしても、靴紐を通し直すという作業は毎日やるには少し負担が大きすぎるように思う。それでも、今日のように、時間がないのではないかと心が焦っている日や、天気が悪くポジティプな思考を作りにくいと感じる時は、より丁寧に綺麗に解くようにしている。
あえて時間がかかるように、そうした時間が気持ちに少しでも落ち着きを与えてくれるように。
実際に、遅刻しそうだと思った時間から十数秒遅れたからといって、事態がそこまで大きく変わるわけではないのだ。「あと十数秒早く家を出ていたらこんな事にはならなかったのに」という事態に直面した事はない。そんなところで、わずかしか無い心を削ってもしかたがないだろう。
これからどういう行動をとったとしても、どうせ今日のこれからの時間は私の心を削り続けるのだから。
目の前の玄関の扉を出たら、家の中で過ごすように気を抜いてはいられない。
職場に着くまでの移動時間ですら、私の精神を蝕んでいくという意味では、拘束時間に他ならないのだ。
足が綺麗に入った事を確認し、左足の靴紐を通していく。
私の足は左のほうが右よりも若干大きいように思う。毎日履いている靴だから、入らないわけでわけがない事は知っている。だから特に、気にする必要もないのだが左足を先に入れてしまったほうが安心する。ちょっとしたハードルを乗り切ったような気分になるのかもしれない。
仕事をしていて、目先のハードルを早めに越えておこうと考えられることは多くない。面倒くさいこと、心苦しい仕事をどうしても後回しにしてしまう。良いことではないと分かっているのだが、どうしても楽なほうに流れようとして自分の首を絞めていく。左足から靴を入れるという事はそんな自分に対しての戒めにもなっていないのだろう。それでも、私は左足から靴を履く。そこには論理的な理由は無いのかもしれない。
左の靴紐を結び始めた。いつかテレビで放送していた「解けにくい結び方」をする。
結び方を変える前でも靴紐が頻繁に解けて困るということは特に無かったし、解けにくいという結び方に変えてからも解ける時は解けるものだ。もしかすると結びかたが間違っているのかもしれないし、テレビで伝えられていたほど効果のある結び方じゃないのかもしれない。だから結び方を変えた事は、ただ悪戯に一手間増やしているだけかもしれない。靴紐を結びながらそんなことを考える時間すら、私に余裕を与えてくれる気がする。少なくともそういった事を考えている間は、仕事の事も、暗い気分にさせる天候の事も考えてはいない。
右足の靴を手に取り、靴紐を解き始めた。こちらも左足と同じで上から数個分の穴から紐を抜き取っていく。
私は他の人よりも革靴を履くのに長い時間をかけているのだろうが、その間に時計を見る事はほとんどない。玄関スペースに時計が無いわけではない。玄関の扉と向かい合う位置、つまり靴を履こうとしている私が背を向けている壁に時計がかかっている。後ろに振り返るだけで、何分進んだかを知ることができる。しかし、そうやって時間を確認することからは焦りしか生まれない。こんな事を考えているというだけでも、せっかく静かに落ち着いていた私の心に白波が立とうとしているのだから。
靴紐を結び直す習慣がなかった頃は、玄関スペースにまでくると、まず後ろを振り返り時間を確認した。靴べらと靴を取り出して床に置き、足を入れながら再び時間を確認し、両方の革靴を履き終えた後に、もう一度時計に目をやってから出発していた。当時の私がいかに時間に追われていたかという事を、靴紐を解く習慣をつけてから痛感したのを覚えている。
右足の靴に足を入れる。心なしか左足の時より入りやすい気がする。
実際に測ったこと無いけれど、左足のほうが大きいと感じているのはこの微妙な感覚のせいだ。そもそも、両足の大きさが全く同じ人のほうが稀だという話も聞く。きっと私の左足は右足より確かに大きいのだろう。おそらくこういうわずかな感覚の違いを感じている人は多いのではないだろうか。
毎日のようにやっている作業に相当慣れてきているせいで、あまり意識しなくても指が勝手に靴紐を通していってくれるような感覚がある。こうやっていろいろ考えながら靴紐を通していくことができるのは、手の動きにほとんど意識を向けていないからなのだ。
そうやって紐を結んでいると、右足に取りかかる頃には、今日の予定を頭の中で整理しはじめている。今日のこれからの事を考え始めると、楽しいことは何も思い浮かばない。だからといって憂鬱にもなっていられていない。
右足の靴紐を結んでいく。
私を冷静にしてくれるわずかな時間が終わろうとしている。この靴紐を結び終えたら、職場に向かうために歩み始めなければならない。
このまま靴紐を結び終えてしまいたくない衝動に駆られながらもしっかりと結ぶ。
ここまでくると気持ちを前向きにしていくだけだ。今日一日も頑張ろうと。
立ち上がって、靴の履き心地を確認する。
靴紐を一度解き結び直す習慣を取り入れてから、それ以前より靴の履き心地は良くなった気がする。
足にフィットしている感覚だ。この感覚が心地よい。
私は革靴を履く前よりすこし晴れた気持ちで扉を開けて、家の外に出る。